篠山の歴史を知る「篠山町75年史」ー「交通・通信(電気)」

沿革
篠山町にまだ電燈というものがなく、各戸ランプを使用していた頃は、街路の照明も石油燈であった。毎日夕暮れ時には石油罐を下げ、キャタツをかついだ者が町通りを次から次へ走って軒先の街燈へ油をさし、マッチで点燈していくのが見受けられた。40、50年前の風景である。
それが兵営設置が動機となり、その翌年大阪の才賀電気商会が一切の建設を引受けて配電工事に着手、明治43年2月7日、篠山電燈株式会社が資本金4万円で設立され、初めて当地方に電燈を見ることになった。
 
初代社長才賀藤吉、取締役野田儀一郎、森本荘三郎、樋口達兵衛、米村忠兵衛、監査役西阪熊太郎、小西竹次郎、斎藤幸之助
 
配電区域は篠山町一円、岡野村、城北村、八上村の一部と聯隊で、取付個数1,022燈、点火数945、戸数321戸であった。
内訳 篠山町284、八上村13、城北村22、岡野村2、計321戸
 
燭光は16燭、10燭、5燭の三種だけであった。
内訳 5燭234、10燭708、16燭58
 
その後、配電区域を後川村を除く多紀郡一円に拡張、点燈戸数も急激に増加したが、昭和10年12月26日関西電気株式会社と社名を変更した。この時の社長は末正盛治、資本金60万円であった。
 
昭和13年の需要状況は次の通りである。
 
需要家戸数 8,419
取付灯数 23,886
従量灯 8,707 
電力需要家戸数 309
総馬力数 603
同個数 403
電熱設備数 46(48キロワット)
 
昭和15年11月26日、同社株式全部を京都電燈株式会社に売却、全取締役が退職した。その後は京都電燈株式会社が関西電気株式会社を経営、前取締役小西閏三が引続き同社営業部長として勤務した。
昭和17年10月1日、関西配電株式会社京都支店篠山営業所として発足、同18年5月1日、同神戸支店篠山配電局と改称、次いで昭和26年5月1日、関西電力株式会社神戸支店篠山配電局と改称、更に同27年8月1日、同篠山営業所と改称して今日に至っている。
 
昭和29年末現在は次の通りである。
 
電柱総本数 8,700本
需要家戸数 13,936戸
電灯総灯数 75,011灯
電力 4,911キロワット
 
発電所の沿革
明治43年2月、篠山電燈株式会社設立と同時に、上河原町に火力発電所を新設、電力を供給した。吸入ガス発動機1台、100馬力、75KVA
その後、供給戸数の増加と共に電力に不足を告げるに至ったので、大正5年11月、有馬郡小野村小柿、羽束川電気株式会社と水力電気受供契約を締結、工事に着手し、大正8年1月10日より20キロワットを受電した。
さらに電力の不足を補うため、大正11年3月、味間村大澤に火力発電所(250馬力、180KVA)を新設すると共に、大正12年には氷上郡村営上久下水力発電所よりも電気受供契約をした。
その後も需要家の激増によって電力は又も不足を告げたので、大正13年12月古市不来坂に変電所を設け、大正14年1月より姫路水力電気株式会社より300-400KVAの電気が供給されることになったので、漸やく電気の不足が解消され、上久下、羽束川の送電を始め、郡内火力発電所も全部取止めて、姫路水力の送電一本となった。
昭和20年7月17日には、郡東方面へ強力送電の必要上、新たに篠山町西新町に篠山配電局変電所を設置した。設備容量1,200キロボトルアンペア。更に同25年8月9日、3,000キロボトルアンペアに変更以来今日に至っている。
 

このページの記事は「2004年トライやる・ウィーク」で篠山市立篠山中学校の2年生3名が作成したものです。

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